今は亡きジャンボ鶴田の功績

強すぎた怪物レスラージャンボ鶴田。
現代の若者は、もうDVDで見る事しか出来ない。
プロレスミドル世代の記憶に残っているレスラーである。

無人のスタミナ、技の切れ、どのような技もすぐ自分のものにしてしまう。
相手が決め技を出す同じ技で返すテクニックなど。

さらに、完全無欠のバックドロップ
どこをとっても日本人離れした選手だった。

感情を表に出すことは少ない時代もあった
時代の変化と共に、日本人対決が支流になる日本のプロレス。

その日本人対決がとんでもない怪物を生み出した。

初代世界タッグ王者。
日本人初AWA世界ヘビー級王者。
3冠統一初代王者など。それがジャンボ鶴田

全日本プロレス全盛期布石

当時のプロレスは、力道山からその流れを受け継いだ
ジャイアント馬場が率いる全日本プロレス。

同じく力道山の弟子、アントニオ猪木が旗揚げした新日本プロレス。
BI砲として、タッグを組んでいた。
ジャイアント馬場とアントニオ猪木が袂を分けて立ち上げた両団体。

いまある、数多くの団体もこの2つから出て行った選手が立ち上げた。団体も多い。
プロレスの歴史を語るうえで馬場、猪木は外せないのである。

当時、全日本はNWAを最高峰とし外国人とのタイトルマッチを軸にしていた。
新日本は過激な団体として、他団体との対抗戦、異種格闘技などまったく違う路線を走っていた両団体

馬場と猪木は直接対決は、実現しなかった。
団体として、ライバルむき出しの関係。

馬場を挑発する猪木
自分のペースを崩さない馬場。なんとも奇妙な関係。
ジャイアント馬場の弟子はジャンボ鶴田。
アントニオ猪木の弟子は藤波辰爾。
この2人、日本人対決が主流になった時代にも対戦経験がない。

ファンにとってはとても見たい戦いであった。
その後、2人は順調に成長していく。

藤波は、いま棚橋や真田が使っている
ドラゴンスクリュー
ドラゴンスリーパーなどのオリジナル技を開発。

今は亡きジャンボ鶴田
全日本の馬場の後継者として全日本プロレスに就職しますと入団。
時の全日本は外国人VS日本人 テリーファンクやドリーファンクが人気の団体。

NWA王者=世界一のベルトと謳う全日本。
何度も世界王者にチャレンジするが善戦マンのレッテルを張られる、ジャンボ鶴田。

当時の鶴田の技は、ジャンピングニーパットを軸に試合を組み立てる
これと言った必殺技がない。
器用であるが必殺技がないジャンボ鶴田。

観客ファンを納得させる決め技がない
見かねた、ジャイアント馬場は、ルーテーズの所に修行に出す。

そこで覚えたのは、へそ投げ式バックドロップ。 このバックドロップが進化を遂げ、三沢たちを苦しめる
当時の、全日本のバックドロップは抱え込み式のバックドロップで、新日本の旋回式バックドロップと比べたら
見栄えが悪い。

ジャンボ鶴田が、ルーテーズ式のバックドロップを覚えた時、新日本の使ってるバックドロップと何が違うのかと感じたも
のだが。それは別物であった。
ジャンボ鶴田は、善戦マンから、ルー・テーズのバックドロップを使い世界のベルトにたどり着く事になる。
当時の世界最高峰のベルトは、NWA世界ヘビー級・AWA世界ヘビー級、WWF世界ヘビー級
となるが
日本人初のAWA王者となったジャンボ鶴田
決め技は、バックドロップというよりバックドロップホールド

出展元全日本プロレス
画像出典 全日本プロレス

長州力の革命

長州力
画像出典元 新日本プロレス

長州力の登場は、藤波辰爾へのかみつきから
始まった、既定路線で藤波は猪木の後継者
その藤波に、おまえのかませ犬じゃない。

ブレイクの発端となったのは「藤波、俺はお前のかませ犬じゃない」という発言だが、長州が実際に発した言葉は「なんで(入場の際に)オレ(長州)がオマエ(藤波)の前を歩かなきゃいけないんだ、なんで(メキシコで当時実力No.1のカネックを破り、UWA世界ヘビー級王座を奪取し凱旋してきた)オレ(長州)がオマエ(藤波)の前に(試合前での)コールされなきゃいけないんだ」

この発言をきっかけに、長州は新日本でムーブメントを起こすことになる
この藤波と長州の戦いは、新日本プロレスを盛り上げた
その長州が藤波との戦いに区切りをつけ

ジャパンプロレスを旗揚げ
全日本参戦となる

その長州全日本参戦をきっかけに、全日本もまた日本人対決が
主流となり、怪物鶴田を生み出すことになる。

長州は日本のプロレスを変えた人物であり、鶴田を怪物と変貌させた人物でもある。
ジャンボ鶴田VS長州力フルタイム戦