ジャンボ鶴田訃報

怪物、最強と言われジャンボ鶴田の訃報が入ったのは

2000年5月13日

フィリピンマニラ市で移植手術で滞在入院中病院で亡くなった

ジャンボ鶴田は肝臓がんでリングを離れたていた。

 

ジャンボ鶴田が元気であれば、ジャイアント馬場亡き後全日本プロレスを牽引したのか?

それともプロレスを離れたのか?

それは分からないが、ジャンボ鶴田の経営する全日本プロレス見てみたかった

 

三沢光晴も選手として集中して試合に臨めたかもしれない

もしかしてプロレスリング・ノアすら存在していなかったのかも?

 

最強ジャンボ鶴田と天龍源一郎の戦い

過激な技の応酬全日本四天王プロレス受け身の天才達

その1ヶ月ご全日本プロレス三沢光晴と大量の選手が全日本プロレスを退団する事になる。




三沢光晴全日本プロレス退団

ジャイアント馬場が生前の頃、ジャンボ鶴田と天龍源一郎が全日本プロレスを去った

四天王プロレス全盛期である

四天王プロレス

試合で納得させる四天王プロレス全日本

三沢光晴は新時代のプロレスを提案、しかし馬場夫人はジャイアント馬場の伝統のプロレスを支持

ジャイアント馬場は三沢光晴と馬場夫人の間に挟まり苦悶していた。

 

三沢光晴は馬場夫人の全日本プロレスへの関与を辞めて欲しいとジャイアント馬場に直訴した

しかしその意見は通らぬまま、ジャイアント馬場が死去してしまう。

 

三沢光晴は、全日本プロレス社長へと就任となるが、馬場夫人の雇われ社長のため

理想のプロレスを実現することが出来なかった。

三沢光晴は、全日本プロレスを退団する意思を次第に固めていく

 

そこで訃報が入ってきた、ジャンボ鶴田の死去である。

ジャンボ鶴田の死去から一か月、三沢光晴の中で何が起きたのか?

 

日本テレビの全日本プロレス撤退、三沢光晴に追随する選手たち

三沢光晴は、1人で退団する予定であったが、三沢光晴に多くの選手たちが三沢光晴と行動を共にする事を宣言

日本テレビが三沢光晴の旗揚げする新団体の放送を決める

この多くの出来事が、新団体プロレスリング・ノア立ち上げに繋がった。

 

三沢光晴は、自身の体のメンテナンスを行うことなく

新団体プロレスリング・ノア設立に動く事になる。

 

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